イノ読②「黄金の服」佐藤泰志

先月の本倶楽部大分の定例会で近くに座っていたある書店員さんから、「井野さんはプレゼント交換会で佐藤泰志を選ばれていましたよね、ぼくも好きなんですよ」といわれて私はとても嬉しく思った。それは個人的なレベルにおいて、プレゼント交換会の醍醐味の一端がおよそ10カ月以上の時を経て小さな波紋をつくった瞬間ではなかったか……

まずはその本倶楽部大分についての紹介をしなければならないのだろうがその詳細は次の機会にとっておくとして、書店員さんや出版社の方々の集まりのなかにほとんど部外者である私が、よく足を運ぶ書店の書店員さんに誘っていただいたのをきっかけに参加することになったのが、ちょうど一年前の12月の会合からだった。その回は年の最後の会ということもあり、また、クリスマスも近いということもあって参加者全員で文庫のプレゼント交換をすることになっていた。

私はその会のメンバーを、誘っていただいた書店員さんひとりしかまだしらなかったときで、どのようなひとがいて――それも日々、本に携わっているひとたちの集まりというのが前提で――そういうひとたちに贈るとすればどのような本が喜ばれるのか皆目見当がつかなかった。人気作家のベストセラーはすでに読んでいる可能性があり、下手なものは贈れないと考えていたし、かといって個人的な趣味を押しつけるのもどうかと思案した末に、映画の公開にあわせてカバーが変わっていったーーとにかくじぶんが読んでみておもしろいと感じていたものを相手がどう感じようがそれは仕方がない、という結局は半ば開き直りの姿勢でーー佐藤泰志の「そこのみにて光輝く」を選んだ。総立ちの状態で円を作り、各々の仕方で包装された本を誰かが歌う声(誰だったかは忘れた)のあいだ、右回りに渡していく。歌い終えると同時にそのとき手にしているものがじぶんのものになる。私は人見知りするたちなので、他のメンバーがやっているように「これくれたの誰ですかー?」と確認し合うわけでもなく、また、私が選んだ本が誰の手に渡ったかも探さなかった。ところが、その佐藤泰志の文庫を手にひとりひとり話しかける青年が目に入った。そのひとの選書かどうかをひとりずつ確かめているようすだった。ついには私のもとにたどり着いたので「それはぼくです……」と答えた。彼は映画をみていてその作品に非常に感銘を受け、しかしまだ原作は読んでいない、読みたいと思っていた、といってとても喜んでくださった。

それから10ヶ月後の会合でまたべつの、近くに居合わせた書店員さんから「ぼくも好きなんですよ」と話を振られ、嬉しくなった私は佐藤泰志のあれがよかった、この作品がよかったなどとその会の談義に花が咲かせることができた。

私はそれをきっかけに久しぶりに「黄金の服」という短編集を読み返してみて、初読では感じることのなかった登場人物たちに対しての、少なくない佐藤泰志像を垣間見ることができた。佐藤作品をとおして、語り部や第三者、男女問わずそこに描かれている人間にはどこかその作家像が反映されているのではないか? 

佐藤泰志の描く主人公たちは、なぜそれほどまでに強く生きれるのだろうか? と思っていた。しかし、再読することでまたべつの印象を受けた。それまで強いとばかり思っていた主人公の、本当は脆くて隠しきれない内面が次第にみえてくるのだった。傷つきやすく、傷つけられることを怖れている内面と/それを悟られまいとして肩肘を張って周囲にふるまう登場人物たちの外面が、発表から25年以上経ったいまの読者に無意識なまでに共感を与え、評価が見直されている理由につながるのではないか。

内側/外側の使い分けを、それも顔を見合わせることなく接するときにもっとも必要とされる場面の多いことにとても疲れることがある。じぶんを知ってもらうため、内面的なものを自ら露呈させようとしてもそれはなにかしらのフィルターを被せた、結局のところ外面的なものに逆に還元されてしまう辛さ…… 次第にじぶんの内面は外面に溶け込んでしまいみえなくなると、それを探すことすらやめてしまう。私は誂えた衣服を装うことで私のすべてとしてふるまう。私にはこれからも、その「黄金の服」を手放すことができないのかもしれない。



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