イノ読①「句合の月」(正岡子規)

正岡子規がおもしろい。

正岡子規といえば俳人・歌人として近代文学に多大に影響を与えた人物であるが、また、今日でいうところのエッセイストとしても非常に人気が高かった。

岩波文庫からでている阿部昭編纂の「飯待つ間―正岡子規随筆選―」は子規が10年あまりにわたって新聞や雑誌などに発表してきた多量の随筆の、すでに文庫化されているもの以外のなかから精選したものである。年代順に並んでいるとはいえ、明治の頃といえばちょうど言文一致運動の高まりにより文語文から日常的な話言葉に沿った口語文に移行するときで、本作でも文語体のものと口語体のものとが混在する。

文語体の作品は馴染みがないせいかどうも私の頭には入ってき難い。しかし、口語体で書かれた、なかでも「句合の月」という随筆は非常に読みやすくおもしろかった。

「句合」というのは左右ふた組に分かれてそれぞれ一句ずつ発表しその優劣を競うもので、それを判定するものがひとり(ばあいによっては複数名)いる。その判定者に媚を売っての作風や好む趣向に合わせて考えようとするわけではないが、どうしても自然とそうなってしまうものらしい……

今回、句合の順番が回ってきた子規に与えられたのは「月」という非常に漠然としたテーマだった。早速句合で発表する句をつくらなければならないのだが、どうも熱があり身体が重たいので布団に横たわり体温計を脇にはさんだまま句をひとつ考えてみることにした。頭のなかの空想を詠むことも考えたが、しかし判定者は河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)という子規に師事しのちにヒューマニズム色を押しだす自由律を生み出した俳人で、やはり今回は写実に徹しようと決める。(ところが私としてはここからが不思議で、子規は布団のなかから動かずに月明りの森の景色を、そこの小道を歩いているところを胸に浮かべるのだが、その時点ですでに空想ではないか!)写実写実と考えているからこのような平凡な景色を浮かべるのだと考えた子規は、しかしながら風景が広いと写実から遠ざかってしまうのでもう少し狭く細く写そうと思い、葉隠れの、森の影を踏みながらいくら歩いていってもじぶんの顔を照らすことのない月という趣を考えるのだが、これも場面が長すぎて句にならないと思いいたる。それから一度我が家に帰る。じぶんの家の庭にある椎の木ごしにちらちらとみえる月というのはいつもみている風景なので、これを句にしようと考える。早速、

――葉隠れの月の光や粉砕す、とやってみた。

二度吟じてみるととんでもない句だからそれを見捨ててまた先の小道に戻る……

それ以降もまた暗い道や川、田んぼなどをみてまわりながら句を考える。さまざまな場所に辿りつき写実を試みてできあがった句を詠んでみる、そのたびに「あまりにも平凡!」といって自ら驚いては、ボツを量産する。(おそらくは句合で披露するには非常に恥ずべき句なのだろう…… しかし、この随筆のなかに子規自身の手によって発表してしまっているではないか!)

私はじっさいに子規と、その場面を移動し子規が詠む句をきいている。ひとつできあがった句を過去に発表したものと比較し思案しているとき、唐突に、「この時験温器を挟んで居る事を思い出したから――」という一文があらわれ、ああそうか、と、子規は布団の上だったことを思いだす。語り手は布団の上で身動ぎしないまま、読者は子規の家の近所を――それも美しい風景のなかを――徘徊するという幻想的な体験をするのである。

子規が、熱にうなされながらああでもないこうでもないとやり、トライアンドエラーの末に「月」というテーマで句を完成させることができたかどうかの結果は、ぜひ本書をたしかめていただくことを各々にゆだねる。



「句合の月」は収録されていないが、正岡子規を初読であれば読み易さの点でちくまからでているこちらのほうがいいかもしれない。


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